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行楽 お勧め情報 広島県呉市 大和ミュージアム編 [行楽情報]

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広島県呉市 大和ミュージアム編

広島県呉市にある大和ミュージアムは有名で
私は大和ミュージアムに2回ほど遊びに行ってきました。
1回目は映画の戦艦大和の撮影用のレプリカでしたが、
すごく大きなものでした。

戦争の為に戦艦は作られたのですが、
その技術は船を作るのに今にいたっています。

yamato_6.jpg

資料は大和ミュージアムより抜粋

戦艦大和の結末

戦艦「大和」は、昭和16(1941)年12月、呉海軍工廠(海軍直轄の工場)で、
当時の最先端技術の集大成でありながら極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。
しかし昭和20(1945)年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途上、
米艦載機の攻撃を受け沈没、乗員3,332名のうち3,056名が大和と運命を共にしました

戦艦大和10分の1の模型

全長26.3メートルもある10分の1戦艦「大和」は、
設計図や写真、潜水調査水中映像などをもとに、
可能な限り詳細に再現しました。
この10分の1戦艦「大和」は大和ミュージアムの
シンボルとして平和の大切さと科学技術のすばらしさ。

1F 呉の歴史

明治22(1889)年に呉鎮守府、明治36(1903)年には
呉海軍工廠が設置され、戦前は戦艦「大和」
を建造した東洋一の軍港
日本一の海軍工廠の街として栄えました

2F 大和の建造計画

軍縮期に設定された艦艇の保有・
建造制限に対応するために高められた
技術の集大成として史上最大最強の戦艦「大和」が設計されました。

「大和」の建造にあたって

「大和」型戦艦は構造がきわめて複雑で、
予定通りに工事を完成させるには
緻密な計画が必要でした。
機密保持も工廠の設備から市民生活にいたるまで
あらゆる面で徹底され、細心の注意が払われました

「大和」の技術

「大和」は、国力面におけるアメリカ側の”量”的優位に対し、
日本が”質”で対抗しようとした艦であり、
当時の最新技術の結晶と言えるものでした。
その技術は日本の復興と高度成長を支え現代にも受け継がれています

「大和」の生涯

昭和16(1941)年12月16日に竣工後、
「大和」は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたりましたが、
すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、
「大和」は支援任務が多くなります
戦争終局時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えました。

「大和」に乗っていた人々は?

乗組員たちは沖縄特攻に際し、
遺書・手紙・葉書などに家族への
思いを託し出撃していきました。

戦時下の市民生活・呉空襲

戦局の悪化とともに、食糧不足に悩まされるようにもなり
一般市民の生活は戦争一色となりました。
日本最大の海軍工廠があった呉は、
アメリカ軍の空襲の標的となり、14回にもおよぶ空襲を受け、
うち6回は特に激しいものでした

1F大型資料室

零式艦上戦闘機62型

九三式魚雷・ニ式魚雷
九三式魚雷は、それまでの魚雷の欠点であった
射程距離の不足、航跡発生の問題を解決するため、
燃料酸化剤に純粋な酸素を用いていました。
この酸素魚雷を太平洋戦争までに実用化できたのは日本だけでした

特攻兵器回天十字(試作型)

海軍の青年士官から提案されたものです
平均年齢21歳の100名以上の尊い命が失われました。
全長9メートル、重量2.5トン、乗員1名

零式艦上戦闘機六ニ型

広海軍工廠で研究・開発された技術が活かされました
機体全てを金属で製作する技術、
運動性重視から主翼を片方だけで支える強度維持の技術、
桁と外板で主翼の強度を保持する技術などは、
日本国内では広海軍工廠からはじまりました。

各種砲弾

戦艦「大和」などで使用された46センチ主砲弾や、
戦艦「陸奥」などで使用された41センチ主砲弾を
各種砲弾や火薬缶などを展示しています

3F船をつくる技術

操船シミュレーターのほか、波の性質を学べる実験水槽、
科学の不思議を体験するサイエンスショーや
工作教室などで楽しく学べます

戦争の為に使用して欲しくありませんが
一度呉市 大和ミュージアム見学を
してみる価値は充分あると思います。


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